クライネットの架空地域「ヴンダーシア」の情報を詰め込む部屋

ここではヴンダーシア地方の歴史についてまとめる。

歴史概説

古代

紀元前3世紀頃にドラッヒェン帝国ステリー島を統一し、マデイラ諸島、カナリア諸島も支配下に置いた。前2世紀にはベリア南部に属領ソウルズィアスをたて、その後イベリア半島西岸でローマ人と戦いルシタニアを得た(ドラッヒェン領ルシタニア)。
しかし5世紀には西ローマ帝国の崩壊に伴う混乱や諸侯の肥大化によって大分裂し、500年頃に地下地域に退いてステリー島の全領土を喪失した*1

中世

ルクヴァーレン王位を継承していたローマン家は6世紀中頃に大ルクヴァーレン王国を建設してステリー島の大部分を征服したが、北方諸侯の反乱にあい滅亡した。それ以降200年近く地方勢力の抗争が続き、統一王朝は現れなかった。
キセキ王デウス家は、8世紀にリキト大王のもとで同君連合によってステリー島を再統一した(大デウス朝)。リキトはデウス教を国教化して支配に利用した。デウス朝は強固な中央集権制を固め、国内は一時安定したが、10世紀には宗教改革などを通して南北での民族的対立が高まり、王リンフェルは国土を北のデウス王国と南のルクヴァーレン王国に分割して北をセキエルに、南をアルシルに継がせた。この南北分割によって国政は再び安定し始めた。また、分割によって南北での文化に大きな差が生まれた。
ルクヴァーレン王国でのデウス家支配は長く続かず、ヴルグラート家に王位を奪われた。ヴルグラート家はキセキのデウス家と対立したが、やがて和解した。この頃、シンコウ島が発見されて開拓が始まった。
ドラッヒェン帝国の滅亡以来ずっと西洋との交流はなかったが、16世紀後期には少しずつヨーロッパの商船の漂着が見られ、17世紀に入る頃には本格的に西洋人との貿易が行われるようになった。

近世

デウス王ソーリスの即位にターレン諸侯が反発し、カラカラ家の蜂起によって戦乱期が始まった。ソーリスは処刑され、カラカラ家の意向によって新たな王が決められた。カラカラ家ら攘夷派に反対する諸侯は融和派を組んで団結し、やがて政権を奪取した。これ以降、キセキ王位を巡って100年近く争いが続く。
一方地方でもクーデターが相次ぎ、キセキの中央政権を奪ってもその力は遠方まで及ばず、キセキと各地域で個別に争いが繰り広げられた。その中でやがてクロヤ家が台頭し、デウス家の分家であったヴィオレティスと結びつくと大勢力となった。クロヤ家は1690年頃からキセキを掌握している最高神殿が内紛を起こしたのをみると彼らを攻撃し、デウス家の有力分家の娘であるスティーリアをキセキ王に据えて戦乱期を終結させた。
クロヤ家はその武力と経済力を背景に有力諸侯と姻戚関係を強いて3王国全ての外戚になった。こうしてクロヤ家はヴンダーシア全土の政治を掌握して「セキオウ朝」を作り上げた。
クロヤ家は自由貿易を推進したため、西洋の技術が流入するとともに国内で産業革命が起こった。しかし自由貿易が裏目に出てヴンダーシアの魔法資源が安く買い叩かれる結果となり、セキオウ朝末期には経済が不安定になった。またクロヤ家はますます独裁を強めていき、ついには傘下のルクヴァーレン王国を消滅させるに至った。19世紀初期にはポルトガル戦争の混乱からクロヤ内戦が勃発、クロヤ家は敗北して支配から退いた。

近代

内戦の後はデウス・アッタ王国デウス・グロース王国の2王国が秩序の再構築を図って同盟を結んだ。
半世紀ほどは安定が続いたが、19世紀後半には格差拡大と経済の低迷に陥った。1872年には日本の岩倉使節団を迎え入れ、その後日本との国交を開いた。80年代には帝国主義的進出を狙ったフランス、イギリスから相次いで攻撃を受け、港の租借を受け入れてしまう。デウス・グロース王国で専制が強まったことも合わさって国内では民衆の不満が溜まっていき、20世紀に入ると立て続けに反乱が起こった。その最も大きなものが1902年の勝利団革命であり、勝利団は両王国に跨って暴動を起こした後カラカラ公?国の政権を無血で掌握し新ヴンダーシア帝国を建てた。
新ヴンダーシア帝国第一次帝国戦争で領域を拡大した後1910年にはベリア侵略も成功させた。サラエヴォ事件の混乱に乗じてポルカサへも侵略した新帝国にデウス・グロース王国が宣戦して第二次帝国戦争が始まった。新帝国はグロース王国とフランスからの攻撃を退けてポルカサを制圧、ヴンダーシアの広い範囲を侵略してブルターニュにも進軍した。しかし1916年には撤退に転じ、反対勢力からの反攻を受けて1919年に降伏した。

現代

第二次帝国戦争で戦勝国側を率いたデウス・アッタ王国トパズィア女王は、マルメゾン条約の締結や大再編政策によって秩序の再構築を図った。最終的に8カ国を連合させてヴンダーシア連邦を建国、これは50年以上続くことになる。
一方ヨーロッパでは情勢不安が続いており、それに伴ってヴンダーシアは外交を閉ざす。トパズィアが1920年代から海禁政策を徐々に強めることで世界恐慌の影響が最小限に抑えられ、また外国との一切の軍事的交渉を拒否して第二次世界大戦に加わらなかった。世界大戦が終わると再び外交を開き、積極的な貿易へシフトしていった。
トパズィアは1965年に病気を理由に生前にして息子スイショウに譲位した。スイショウは自由主義を掲げて政治を民主党の内閣に全て任せる姿勢を取るが、民主党の急進的なやり方が国内の混乱を高めた結果、王政革命を招いてしまう。この革命でデウス・アッタ王国ガルセシア君主国以外の君主国は全て崩壊して共和国がたち、スイショウも反乱を受けて退位した。出現した多くの共和国は全てアッタ王国かガルセシアのどちらかに併合され、その二カ国でキセキ体制の秩序が作られた。
しかしキセキ体制はアッタ宰相ゼルークとガルス宰相フェレヴの極端な政策によって崩れ、両国間でガルセシア戦争が勃発、ガルス王国が滅亡した。その後デウス・アッタ王国共和革命で王政廃止を迎え、ヴンダーシア全土を治める連邦国家ヴンダーシア共和国連邦が成立した。
共和国連邦はマグリビヤとのカサブランカ協定などを通して周辺国、特に北アフリカとの関係を重要視した外交政策を取った。2000年代には国民党が台頭して極端な外交によってリオ・デ・オロ戦争を開始、北西アフリカでの影響力が急速に強まった。国民党が分裂した後もその後身である国民進歩党国民の盾が高い人気を維持している。また、内政では一貫して自由な経済が認められて企業が成長、コンツェルンが組まれて格差が広がった。

年表

西暦年王朝・時代出来事
?~500ドラッヒェン朝
大ルクヴァーレン王国
混乱期
第一デウス朝デウス家リキト大王がステリー島を統一
デウス教が国教になる
1609ソーリス即位
1611地方豪族がソーリスの圧政に反発し挙兵
戦乱期ソーリスが幽閉され退位
ヴィオレティスクロヤ家が合同、「デウス・アッタ王国」が成立
1712セキオウ朝クロヤ家デウス・グロース王国をたて、ヴンダーシア全土を統一
ポルトガル戦争でナポレオン軍に敗北
クロヤ家が貴族位を剥奪され、ヒャッキ島への移住を強いられる
2王家連合朝初の憲法が制定される
1894ドイツ帝国と同盟交渉をするも破綻
1902セキオウ市郊外のレイスレイフ蜂起が肥大化し、「革命軍」を名乗る(勝利団革命)
1903新帝国アルマイナ会談で「新ヴンダーシア帝国」建国される
1904第一次帝国戦争
1910新帝国によるベリア侵略
1914帝国のポルカサ侵略(第一次世界大戦へ参戦)、第二次帝国戦争
1919帝国は降伏し、全ての領土を放棄
ヴンダーシア連邦帝国政府を解体し、国内を大再編(大再編政策)。連邦を結成する
1929鎖国状態になる
1950日本と国交回復
1974王政革命が起きる
1975キセキ体制キセキ合意(キセキ体制)を採択
1992ガルセシア戦争、ガルス王国滅亡
1993共和革命が起きる
共和国連邦ヴンダーシア共和国連邦が成立
1997カサブランカ協定を結ぶ
2011リオ・デ・オロ戦争
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