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ヴンダーシア連邦(ぶんだーしあれんぽう、:Vundarsen elvemil)は、ヴンダーシアにかつて存在した国家。第二次帝国戦争終結に合わせて建国された、ヴンダーシア地方全土を支配する連邦国家である。王政革命によって1975年に崩壊した。
ヴンダーシア連邦/Vundarsen elvemil
国旗領土地図
正式名称ヴンダーシアの諸君主及び諸国の連合(elen ev Vundarses Hifir'il ant vems'il)
標語美しいこの国に美しい秩序を
時期1919年〜1975年
首都(連合統一首都)ネオーン市
体制立憲君主制、連邦制
構成国
(8カ国→7カ国)
デウス・アッタ王国デウス・グロース王国ガルセシア君主国ドレイク公国フルール公国ヒラルヴァルト共和国、最高神殿領、クロヤ騎士団領(途中消滅)

成立

1919年のパリ講和会議の後、トパズィアが行った大再編政策の目玉として、連邦が結成された。

国旗

連邦の旗は、デウス家の紋章がもとになってはいるが、連邦成立時に新たに作られたものである。
中央にはデウス家の象徴である太陽の紋章を大きく描くことであくまでデウス両家中心の秩序が崩れないことを示している。
下に広がる緑は、ヴンダーシアの広大な自然を表す。
太陽の上に沿うように並ぶ八つの星は連邦成立時の8ヶ国を表し、それぞれの色は国家のシンボルカラーである。

政治

連邦宰相

連邦宰相は大政院の議長であり、連邦じたいの国家元首といえる存在であるが、直接的な行政はあくまで各構成国に委ねられている。
選出は大政院での多数決となっているが、デウス・アッタ王国が最大の票決権と大きな影響力を有するため実際にはアッタ国王の意志が反映される。

大政院(連邦会議)

ヴンダーシア連邦における大政院とは、連邦の8カ国全ての代表が集まる連邦行政の最高会議である。議決は一人一票ではなく国ごとに決められた票決権を有し、その数の過半数で議案が可決される。出席者は憲法によって「国ごとの法律で定める」とされており、大臣など議員に加え、一部の国からは君主も出席する。
主に国どうしの協定を結ぶ場であるが、各国内の実際の法律や行政についても変更を勧告することができる。勧告も3分の2の票数を得られれば加盟国に対して強制できる。
各国票決権
デウス・アッタ王国12
デウス・グロース王国4
ガルセシア君主国4
フルール公国3
ドレイク公国3
ヒラルヴァルト共和国2
最高神殿1
クロヤ騎士団1
各国代表
議決は加盟国ごとの票決権数で行われるため代表人数は議決に影響しない。各国15人までなら自由に選出できる。 内閣の構成員と両院議長 内閣の構成員、議会議長、諸侯会議長 行政代表10人前後 両国とも行政代表10人 長老と国会議長、5人の元老院役員
  • 最高神殿
最高神官補佐と6人の神領行政団
  • クロヤ騎士団
民選の代表団7人

歴史

戦間期

連邦成立は第二次帝国戦争後の戦後復興の最中になされた。1930年頃までは諸問題が解決仕切っておらず、トパズィアザムツェルトのもとで復興と内政改革が進められた。
世界恐慌が始まると混乱を警戒して海禁政策を強行し、被害を最小限に抑えた。海禁政策は1928年10月頃の関税引き上げから始まり、当時は緩やかな規制が計画されていたが、同月24日の「暗黒の木曜日」を受けて大規模な規制が計画され始めた。11月から本格的に規制が実施され、海禁政策と呼べる段階に至った。ヨーロッパを中心にほとんどの国に海禁が適用されたが、経済が安定していたポルカサ、ソ連などの一部の国は対象外となった。
1934年には世界経済が回復に転じたのを見て徐々に規制の緩和を行ったが、情勢不安から魔法資源の輸出に関しては制限が残った。

大戦期間

ナチスのラインラント進駐などでヨーロッパの情勢が不安視され、戦争の被害を避けたいトパズィアは再びヨーロッパから距離を置くことを考えた。
英仏がドイツに宣戦布告すると、ヴンダーシアはヨーロッパの情勢不安を理由に北海、バルト海へのヴンダーシア船の侵入を禁止した。さらに戦争が激化すると、渡航可能地域をポルカサ及び南北アメリカ大陸のみに制限し、再び海禁政策に至った。
1945年5月にドイツが降伏すると、翌月にヨーロッパ方面への貿易規制は解除された。一方でアジア・太平洋は依然として危険地域とされたが、日本の降伏により46年にはこちらも解除となり、海禁政策は完全に終了した。
45年のサンフランシスコ会議に調印し、国際連合への加盟も果たした。

大貿易時代

第二次世界大戦が終結すると、海禁政策で萎縮していた経済を復興すべく、貿易の活性化を推し進めた。

国交回復

貿易の活性化と同時進行でいろいろな国との国交回復が進められた。1950年にサンフランシスコ講和会議が行われると、ヴンダーシアは「大戦には一切関わっていない」として欠席したが、直後に横浜で日本と単独で国交再開の手続きを行った。

スイショウの治世

トパズィアが精神不調から退位して息子のスイショウが即位すると、国内の雰囲気は急変した。スイショウリーツェルを宰相に据えたことにより史上初の完全な政党内閣が誕生し、民主主義の発展が加速するかと思われた。しかしリーツェル内閣の急進的な民主化の動きはかえって保守派の反発を生み、1974年の総選挙が引き金となって各地で内戦が発生した(王政革命)。
革命で各地の君主国が倒れると、連邦制度は実質的に崩壊し、その後力を伸ばしたガルセシア君主国デウス・アッタ王国との間で行われたキセキ会談で正式にヴンダーシア連邦の崩壊が宣言された。同時に、2国によって新たな支配体制であるキセキ体制が始まった。
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