クライネットの架空地域「ヴンダーシア」の情報を詰め込む部屋

王政革命とは、1974年にヴンダーシア連邦で発生した革命である。
自由主義派と保守派が激しく激突し、ステリー島では数多くの君主の廃位が行われてヴンダーシア連邦は崩壊した。最終的にデウス・アッタ王国ガルス王国の2カ国が政治を担った。
君主革命とも訳される。当時の元号から「マセキ革命」と呼ばれることもある。
王政革命
場所ヴンダーシア
年月1974年9月~1975年
結果ヴンダーシア連邦の崩壊
交戦勢力
保守派
-デウス・グロース家
-ドレイク公代理軍
-フルール公国軍
-サール独立政府
-デウス・アッタ王国
左派
-デウス・グロース王国
-各地の共和臨時政府

背景

デウス・アッタ王スイショウリーツェルを連邦宰相として結成させた自由主義内閣は、連邦内の君主の権限を抑制する法案を複数提示して君主国を怒らせる。スイショウは他の君主らからリーツェル内閣の解体を求められるが、民主党による民主主義の躍進を目指していたスイショウはこれを拒否、むしろその法案を勅許してしまう。
それが引き金となり自由主義派と保守派の対立が激化し、カラカラ公室に抗議した自由主義政党の一人が暗殺されるという事件が発生する。君主による政治介入を最小限に抑えようとしていたスイショウは決定的な対策を打てず、その後の総選挙では過激派による選挙妨害が複数箇所で行われる。

進行

総選挙とキセキ革命
自由主義派と保守派が引き裂かれたまま迎えた1974年9月の総選挙では、いくつかの場所で選挙妨害が行われた。キセキ市では過激な保守派が投票所を包囲し、乱闘が発生、これに対しデウス・グロース王国政府は動けずにいたが、自由主義派の多い軍部が政府の許可なしに鎮圧に動き出した。そのままグロース王国内では軍部と保守派の内戦状態になる(キセキ革命)。グロース王国の選挙管理委員会は投票期間が終了しても開票すべきでないとして、開票は行われず、議会は再招集されなかった。
各地の内戦
グロース王国での騒動につられて周辺地域でも相次いで内戦が勃発し、それにより年内にフルール公、ドレイク公がどちらも廃位される。グロース王国でもやがて軍部により王家が追放されて共和制に移行したが、いずれの地域でも保守派が君主制の復活を求めて抵抗し、内戦が続いた。一連の内戦で成立した臨時政府の多くは独自に新たな政治体制の構築を目指したが、内戦の中ですべて共倒れに終わった。
ヴンダーシアの多くの国家が倒れるか内戦状態に陥り、ヴンダーシア連邦は連邦議会の停止により実質的に崩壊した。
一方、ガルセシア君主国は内戦を免れて、混乱の中で東サールに進軍し併合する。
アッタ王国での革命
最後に内戦が発生したのはデウス・アッタ王国の王都セキオウ市だった。他国との対立を顧みないどころか議会からの反発も無視するリーツェル内閣への反発が高まり、民衆から支持を得た王党派の平和党が暴動を起こした。スイショウは王宮に留まりながら鎮圧を開始せず沈黙を貫いたが、デウス・アッタ家分家のローディフを擁立した王党派が軍部と結託して王宮を襲おうとするとさすがに命が危ないとしてセキオウを放棄して逃亡した。王党派は空白の王宮を制圧すると高度な立憲君主制の施行を宣言してすぐに内戦を終了させ、ローディフを速やかにアッタ王に即位させた。

革命後

2カ国の躍進
ガルセシア君主国は終始安定しており、デウス・アッタ王国も保守派と自由主義派の和解によってすぐに内戦を終わらせた。すると、その2カ国の躍進が始まる。
75年に入ると、アッタ王国は秩序の回復を口実に周辺地域の不安定な臨時政府を吸収し、内戦を次々と解決して広範囲を平定し併合した。ガルセシアはすでに東サールを併合していたが、加えて西サール、ファルスルーク湾岸、オリツォエン地方北東部を併合する。最終的にヴンダーシア全域がアッタ王国とガルセシアの2カ国で分けられた。
キセキ会談
2政府は講和に動き、キセキで講和会談が開かれる。そこで両者の国境が明確に定められるとともに、アッタ王室はガルセシアに対して王の称号を認める代わりに高度な立憲君主制の施行を要求し、それは批准された。これによってガルセシアはガルス王国と改名した。その他、機能しなくなっていたヴンダーシア連邦の解体も宣言された。

キセキ体制

アッタ王国とガルセシアの講和により、ヴンダーシアは2つの立憲王国が支配することとなった。これ以来約15年間、この2カ国による冷戦的な緊張した秩序が続く。この時代を、キセキ会談から「キセキ体制」と呼ぶ。

影響

トパズィア治世末期には貿易推進などによる経済成長政策が実って高い生活水準を誇っていたが、この革命でステリー島大部分で内戦が繰り広げられることにより経済は打撃を受けた。しかしデウス・アッタ王国ガルス王国の中心地はほぼ打撃を受けず、経済を維持していた。
その後ステリー島の経済はキセキ体制下での2大国の発展とともに徐々に回復していくが、ガルセシア戦争で再び一部地域の経済が打撃を受け、シンコウ島南部やステリー島西部の影響力がますます増していくことになる。
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