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ポルカサ(Porcasa)は、南ヨーロッパのイベリア半島西部に位置する地域。ポルカサ共和国が位置する

概要

ユーラシア大陸の最西端に位置し、ヨーロッパの中ではアイスランドの次に西側である。イベリア半島の西部にあり、南北に長い長方形のような形をしている。東と北はスペイン、南と西は大西洋と接している。

歴史

古代

先史時代とドラッヒェン領
現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年ごろに新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年ごろにイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年ごろから断続的にケルト人が侵入を続けた。
紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人がヴィリアトゥスの指導のもとでローマ人に激しく抵抗すると、ドラッヒェン帝国がローマに対抗して介入し、先住民の保護を申し出てローマと和議を結んだ。ルシタニア人はドラッヒェン帝国の保護下に入り、この地域はドラッヒェン領ルシタニアとなり、ドラッヒェン人の総督とルシタニア人の代表官が置かれた。

中世

ゲルマンとイスラームの侵入
ドラッヒェン帝国とローマ帝国の衰退とともに、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にルシタニア地域に侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年にドラッヒェン属領地域を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。
キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国してイベリア半島でレコンキスタが始まったあと、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレを解放し、ヴィマラ・ペレスを最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャのもとで統合したことにより、現在のポルカサに連続する国家の原型が生まれた。
ポルトガル王国
ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。
ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。この時期にポルトガル語が文章語となった。
ディニス1世のもとで最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化した。最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。
ヨーロッパでもっとも早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にはベリア北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年~1460年)を中心として海外進出が本格化した。
1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後、ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。
一方、1509年のディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズとさらに東進したポルトガル人は、1541年~1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。
同君連合と衰退
ポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した。
スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとしたポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。
一方、この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、ブラジル北東部にオランダ領ブラジルを成立(オランダ・ポルトガル戦争)させた。ブラガンサ朝の独立後の1646年にこれを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。また、同時期にヴンダーシアのカラカラ家がポルカサの混乱に乗じてマデイラ諸島を侵略し、難なくこれを占領した。
ブラガンサ朝の再起
1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラの領有権を認められた。アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼし、モザンビークの支配も強化したが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。1750年にはスペイン帝国とマドリード条約を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えにアマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。
広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。同時期にセキオウ朝ヴンダーシアとの貿易が活発化し、魔法の研究が始まった。
1755年のリスボン大地震のあと、ジョゼ1世のもとで権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。
1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争、ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。

近代

ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。、ブラジル人の国民主義者たちによる独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジーたちがポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。
国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後も自由主義と保守主義の主導権争いが続き、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制のもとでロタティヴィズモと呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はカシキズモと呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。
また、同時期に"ポルカサ"という名称も非公式に広まっていた。
共和制と新ヴンダーシア帝国
1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって、1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。
しかし1914年にはドイツと密約を結んだ新ヴンダーシア帝国によるポルカサ侵略を受け、15年には全土が征服される。一部の共和主義者はスペインに亡命して亡命政府をたてて反撃の時を待った。帝国が撤退したのち1919年にマルメゾン条約で正式に独立の回復が認められ、共和派の亡命政府がポルカサ共和国を樹立するも、国内では保守派も再びくすぶってきており必ずしも歓迎を受けたわけではなかった。

現代

エスタド・ノヴォ体制
幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返したあと、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領のもとで財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルカサ経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された。サラザールの手腕で世界恐慌を受けても経済が安定していたポルカサは、トパズィアのもとで海禁政策を行ったヴンダーシア連邦とも貿易が途絶えることはなかった。
対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。
第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルカサの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のエンリケ・ガルヴァン退役大尉が指導するイベリア解放革命運動によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。
一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルカサに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルカサ植民地に侵攻し、同植民地を喪失した。ギニアビサウでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によって独立戦争が始まり、1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビークでも独立戦争が始まった。
1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動」が結成された。翌1974年3月、大尉運動は全軍を包括する「国軍運動(MFA)」に再編された。
カーネーション革命
1974年4月25日未明、MFAの実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血のうちにカーネーション革命が達成された。革命後、共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDEが廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ将軍は革命を抑制する方針をとったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョと結んだコスタ・ゴメス将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制のもとで急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことをもって革命は穏健路線に向かった。
この間、海外植民地ではすでに1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5か国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を実質的に併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し、レトルナードスと呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。
その後の政局混乱
1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ、モタ・ピント、ピンタシルゴと3つの内閣が成立したが、いずれも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロが首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロの事故死によって崩壊し、以降のポルカサの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルカサのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァのもとで1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。
1990年代に入り経済が失速したことを受けて、1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権のもとでは1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により、1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルカサ語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルカサの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが形式的にも中華人民共和国に返還され、実質上植民地をすべて手放した。2002年、名目上ポルカサの植民地だった東ティモールがインドネシアの占領・実効支配から独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりとともに生まれたポルトガル帝国は、21世紀の幕開けと同時にその歴史を終えて消滅した。
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