クライネットの架空地域「ヴンダーシア」の情報を詰め込む部屋

ヴンダーシアの戦乱期(せんらんき、:traizent go^r)あるいは戦乱時代とは、ヴンダーシアの歴史において、17世紀初期から18世紀初期にかけての国内での紛争が相次いだ時期のこと。
キセキ地方ではキセキ王位を巡って貴族らが争い、その他各地ではクーデターがはびこり、あらゆる支配者が軍事力の強化を余儀なくされた。デウス家及びキセキ王権は一時力を失ったが、急成長したクロヤ家が各地の紛争を平定して王権を担保すると、国内は再び統一された。また、シンコウ島クロヤ家デウス・アッタ王国の拠点が置かれることによりシンコウ島の開発が加速した。

背景

西洋人の侵入

ヨーロッパ諸国が大航海時代を迎え外洋探検が活発化すると、それまで人が近づくこともなかった包囲海域へ侵入する船が増加し、一部は漂流しながらもヴンダーシアに到達するようになる。また、当時は包囲海域が縮小していたとも言われており、それによって侵入が容易であった可能性もある。16世紀末頃には、そうしたヨーロッパからの漂流民らが沿岸部で商人団を作り始めていた。

諸侯の台頭と南北対立

リンフェルによる同君連合解消で一旦収束していた南北対立は、ヴルグラート家がルクヴァーレン王位を簒奪した後15世紀、16世紀を通して徐々に再燃していた。また、16世紀にはデウス家の財政難と南部の穀物生産量増加に伴う大領主の強大化が重なって急速にパワーバランスが崩れた。また、大きな領地を持たない都市貴族らは力を増す大領主と結びついて権力闘争に利用した。南部ではカラカラ家を始めとするターレン平野部の諸侯が力を増してルクヴァーレン王位を狙うようになり、北部でも有力諸侯がデウス家の財政難に乗じて王家を傀儡にしようと企てた。
さらにカラカラ家がルクヴァーレン王位を簒奪するとキセキ王を巡る闘争にも介入し、全土を巻き込んだ政治闘争が巻き起こった。

デウス家の近親婚

デウス家は財政難によって力を増しつつあるデビル家ら大貴族に実権を奪われることを恐れ、他の氏族との結婚をやめた。有力分家であったストーレス家もデビル家と結びついていたため彼らのことも避けており、王たちはやむを得ず三親等内での結婚を何度か行った。それによりしばしば先天性疾患を持った子が生まれ、ヴァルティス(フェルコート)は子供が二人しか作れず、その二人も幼くして死亡し、彼の弟のカイテも盲目で政務は正常に行えなかった。近親婚によりデウス家宗家は断絶寸前まで追い込まれ、結果として恐れていた大貴族による介入が一気に激化した。

商人団の台頭

イギリスで東インド会社が作られるとイギリスの商船もヴンダーシアに到達し、彼らと結びついた。彼らは貿易を通して地方豪族と結びつき、力を増した。貿易で利益を得たステリー島北部などの地域では西洋人が比較的優遇されたが、南部や内陸部など多くの地域では西洋人への反感が高まった。

シンコウ島植民

17世紀初期には、シンコウ島の開発が進むにしたがって、その開発に関わってステリー島シンコウ島とを行き来していた貴族らが島の風土病で相次いで死亡したことがクーデターを誘発した。

前期

1609年、キセキ王フェルコート(ヴァルティス)が死去すると、その二人の子供はどちらもすでに死んでいたため、西洋人に協力的なレイフ家が王のまだ幼い甥ソーリスをフロケールとして即位させ、その母であるレイフ家のヘーレクが摂政となった。すると西洋人に反感を抱いていたターレンの諸貴族はそれに抗議し、ソーリスの退位を求めた。彼らの主たるルクヴァーレン王ロイミヒはそれを制止しようとしなかった。
11年にカラカラ家が武力行使を始めると脅すと、ついにレイフ家は痺れを切らして軍を動員したが、戦闘はほぼ行われずに両者退いた。
ルクヴァーレンでの内戦
ルクヴァーレン王ロイミヒはレイフ家反対派の領内の貴族から軍の出動を要請された一方で、レイフ家からは反対派の処罰を求められ、板挟みになった。ロイミヒがレイフ家に妥協しようとすると、レイフ家反対派のカラカラ家ルクヴァーレンでクーデターを決行して退位を求めた。
キセキの貴族らはカラカラ家の力を侮り、すぐに鎮圧されるだろうと踏んだが、ルクヴァーレン王による鎮圧は失敗し、内乱が長引くこととなる。
キセキでの内戦
カラカラ家らがレイフ家に対する反乱を諦めると、しばらくはキセキ周辺では特に反乱も抗議も起きていなかったが、ルクヴァーレンでの内乱が長引くと、キセキ諸貴族の間にもレイフ家に懐疑的な意見が出始めた。ヘーレクは重臣のひとりの急死を暗殺だとして、それを口実にキセキ内で反対派の弾圧を開始した。
弾圧が進行するとキセキでもフロケール政変が起こり、内戦状態に入った。このキセキでの内戦に加わった貴族らはほとんどが遠方の豪族と繋がっており、キセキの貴族と地方豪族とが合わさってそれぞれの派閥を成していた。それらはやがて西洋人を優遇する「融和派」と排斥を目指す「攘夷派」の2つにまとまって激しく対立した。
こうした結びつきによって、各地でもクーデターが誘発された。
クロヤ
クロヤ家シンコウ島南部クルーフェ地方の領主であったが、キセキの騒乱に焦っている上部領主に対しクーデターを行い領地を広げた。その後は西洋人商人団の買収などを通して徐々に領地や利権を獲得した。
第一次攘夷派政権
「攘夷派」を支えていたカラカラ家ルクヴァーレン王位?の簒奪を達成すると、18年にキセキの王城を襲ってヘーレク、ソーリス親子を幽閉した。これによって実権は攘夷派に渡り、第一次攘夷派政権が成立した。ソーリスの退位が決定され、カラカラ家の圧力で攘夷派と結びつきの強いセルヴェスト家の王族であるライケル(Laiker)が新たなキセキ王に即位した。ヘーレクは処刑され、ソーリスは修道院に入れられた。
すると元々レイフ家と繋がりがあったデビル家はセルヴェスト家に対して攻撃を始め、攘夷派に対抗して「融和派」を構築した。
融和派政権
攘夷派政権が長引くと攘夷派は内部分裂を起こし始め、それをを見た融和派は34年に一斉攻撃を行い、キセキの覇権を奪回、味方するストーレス家のルーゲストをキセキ王に即位させた。10年程は比較的安定した支配ができたが、10年を過ぎるとキセキでの戦闘が急増した。また融和派も内部分裂を起こし、エンフィール家率いる「革新派」が出現した。力をつけた革新派は政権を奪いトルステーン家のフィーリスを即位させるも、数年後に農民反乱によって倒されてしまう。

後期

デウス・アッタ王国の成立
クロヤ家はその策略と資金力によってシンコウ島内での覇権を拡大し、50年代頃にはクルーフェ地方とフジミ地方を統一した。しかし融和派を率いるデビル家と港の権益を巡って対立した結果、エンフィール家と結びついて革新派としてデビルから離反した。
一方、融和派の王候補であったヴィオレティスは、融和派が再び政権を握るめどがたたないことや融和派の内輪もめなどから、独自に領土拡大することを決めた。ディート地方などで広い領土を得た後、王位獲得のために人脈などの準備を進めた。
それに対してデウス大神官、続いてクロヤが目をつけ、ヴィオレティスは彼らからの支持を取り付けた。その人脈を背景に「新王位設立」へと方針を転換し、「デウス・アッタ家」に改姓、新しい王位の新設を宣言した。新たな動きを見せるヴィオレティスに対し、クロヤは同盟を約束する代わりにフジミへ呼び出し、彼はそれに応じた。両者はセキオウで会談し、新たな王位を「セキオウ王位」と名付けた上で条約を締結した。これをもってヴィオレティスがセキオウ王、クロヤがクロヤ大公となり「デウス・アッタ王国」が成立した。
農民反乱
融和派・革新派政権はともに西洋人を介した貿易を重要視し、徐々に重商主義へと転換する動きを見せた。しかしそれは農業と封土を軸とした封建体制への挑戦を意味し、攘夷派の保守的な貴族に加えて北部の農民までも怒らせることになってしまう。60年代には大規模な農民反乱が発生して融和派政権は撤退を強いられた。一方で重農主義を掲げていた攘夷派は農民反乱を味方につけて、電撃的に政権を奪回した(第二次攘夷派政権)。
すると、戦乱によりこれ以上キセキが荒廃するのを恐れた聖デウス最高神殿が融和派と攘夷派を仲介して交渉を行わせ、停戦協定までこぎつけた。この頃にはキセキの下層民から信頼を得た最高神殿が中心となって「妥結派」という第三勢力が形成されていた。キセキでは戦闘が止まったが、遠方では依然として激戦が続いており、どちらにおいても攘夷派が優勢を維持していた。
空位時代(第二次攘夷派政権)
攘夷派は以前のように新たな王をたてて政権を確実なものにしようとしたが、農民反乱のおかげで思った以上に早く覇権を手にしたため、王候補の選び出しが済んでいなかった。すぐに王をたてることはできなかったが、敵側の王は速やかに幽閉した。そこへ最高神殿と農民反乱を率いた農民らが王の擁立を踏みとどまるよう圧力をかけ、キセキ王は"空位"とした。
空位時代の実権はルクヴァーレン王であるカラカラ家のダイニヒが握っており、カラカラ家のもとで重農主義政策に加えて数々の民主的な改革が行われたが、攘夷派の本筋であった排外主義も進められた。80年頃には本格的に西洋人迫害が始まった。ヴンダーシアにいる西洋人はイギリス人やイギリスと繋がった商人が多かったため、迫害を理由にイギリスが小規模な海軍を率いて攻めてくるが、イギリス側は思った以上の苦戦を強いられ、退いた。
その後も空位時代が続くものの、増税や貿易規制などの圧政が重なり、カラカラ家への反感が高まった。カラカラ家の一人が暗殺されたのを皮切りに各地で一斉に反カラカラ派による蜂起が発生した。
妥結派政権
カラカラ家は大打撃を受け、キセキに対する支配能力を失った。主を失ったキセキには最高神殿率いる妥結派の軍がなだれ込み、妥結派の政権を打ち立てた。
しばらくは再び安定が続いたが、融和派、攘夷派両者の画策により妥結派の政府は内部分裂を起こした。また、大神官ローヒスらは即位させた王を大神官の権威をもって立て続けに処刑して幼い王を即位させ、大いに非難を受けた。神殿の夜襲事件が突如発生すると、融和派と接近していたスティーリア・ストーレスなどが謀反の疑いをかけられて処罰された。スティーリア自身は幽閉された。
クロヤによる解決
90年頃の反攘夷派の一斉蜂起によって多くの地域から攘夷派が退くと、デウス・アッタ家とともに強大な軍事力を用意していたクロヤ家が領土を急激に拡大した。力を増したクロヤはキセキでの内戦の解決へ動き出した。12年、攘夷派に圧力をかけて神殿夜襲事件での逮捕者を釈放させ、幽閉されていたスティーリアを救い出した。クロヤはスティーリアから支持を受けようと何度も交渉をし、スティーリアが新たな王となることが決まった。「デウス・グロース」と改姓させて新たなキセキ王に即位させた。クロヤはスティーリアを通じて王位継承に関する法律などいくつもの規定を改正させるとともに、攘夷派の残存勢力などに対し降伏を命じた。
これをもって、キセキでのキセキ王位争いおよび戦乱期が終わり、セキオウ朝が成立した。

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