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共和革命は、1993年にヴンダーシアで勃発した無血革命。デウス・アッタ王国の立憲君主制が倒れ、ヴンダーシア共和国が成立した。

概要

国王フェルテを懐柔して強い力を得たゼルークは、80年代後半には圧政を強めていた。1992年のガルセシア戦争とそれに続くガルセシア大反乱での戦費はゼルーク政権の財政を圧迫したが、議会は圧政への非難から予算を通さなかった。ゼルークは緊急勅令を使って強引に資金の調達を図るが、ゼネストの発生によって軍部が離反し、彼らは政権奪取を狙う自由党の支援に回る。
軍部の圧力のもと自由党が国王フェルテを説得し、共和制への移行が宣言された。

背景

ガルセシア反乱

1992年のガルセシア戦争ガルス王国は大敗し崩壊、国王は亡命してしまう。93年に入るとアッタ王国側はガルセシアの保護領化を決めるが、ガルセシアの民衆はそれを拒絶し、暴動を起こした。アッタ政府が対応に焦っている間にエスカレートし、ガルセシアには革命政府が成立した。

増税問題

ガルセシア戦争は短期決戦で終わったものの、それなりの費用はかかっており、保守党ゼルーク政権は戦争途中の時点から追加予算案を作成し、可決を目指して根回しを進めていた。
ゼルーク政権は行政権や軍部を掌握する国王と連携することで影響力を持っていたが、議会は依然として独立した存在であった。1月下旬に追加予算案は議会によって妨げられ、内閣は苦境に立たされた。
その頃ガルセシア反乱はエスカレートし、費用補填のめどが立たないまま軍は鎮圧に行かされることとなった。

革命の進行

自由党の画策

3月頃、内閣は続いて、国王を再び動かして緊急勅令を発動させ、強引に追加予算を通した。5月に追加分を納入することになったが、増税が行えていないため将来的には国庫の圧迫になることが指摘された。
自由主義派はそれを行き過ぎた独裁だと非難し、自由党は対策に動き出した。軍部に対しては社会主義の抑制を理由に内閣の横暴を止めることを求めて交渉し、王室には民衆の反感を買っている保守党の罷免を嘆願したが、両方とも受け入れて貰えなかった。
また、自由党はこの圧政の原因を立憲君主制であると判断し、王政廃止も目指すことを决めた。

ゼネスト

内閣は増税までは達成できぬまま、また自由主義派は追加予算を許してしまったという状況で、追加予算が約束された5月を迎える。しかしその時、増税に対する反発が爆発して都市労働者によるゼネストが発生し、状況が覆る。政府は軍にゼネストの鎮圧を命じるが、出動したところで報酬も利益もないことを悟った軍部は出動を拒否した。また、ゼネストを巡って保守党が分裂し、大蔵卿は途中だった徴税を独断で停止し、追加予算分の資金納入も取りやめると宣言した。
内部分裂に敵を作ってしまったうえに、政府の資金源が完全に絶たれたことによりゼルークはいよいよ動きを制限された。

セキオウ行進

翌月に入ると軍部はついに自由党に接近し、王政打破の目的を共有する。軍部は自由党と連携をとったうえで、6月18日には国王の権力放棄を訴えてセキオウ郊外を練り歩くというデモンストレーション(セキオウ行進)を行う。自由党の求めに応じて都市部には侵入しないこと、民間人に攻撃しないことを約束していたが、いつまでも成果が出ない場合は過激化する可能性もあった。
ライネスは行進が行われている最中に、個人的にフェルテと面会して王権を手放すよう説得し、翌日にフェルテは要求を呑んで王政廃止を宣言した。

共和制施行

6月29日、フェルテは議会に出席して直々に「共和制宣言」を読み上げ、ゼルークの罷免と王政の廃止を宣言した。また、フェルテの指名によってライネスが一時的な宰相に就任し、ヴンダーシア共和国が生まれた。ライネスは内紛の発生を防ぐため、他の派閥に妥協して挙国一致内閣を組閣した。
その後、大統領制などを含む新しい憲法を制定してヴンダーシア共和国連邦が成立した。
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