クライネットの架空地域「ヴンダーシア」の情報を詰め込む部屋

フェルテ・デウス=アッタ(ふぇるてでうすあった、:Felte Deus-ata、1968年〜存命)は、20世紀ヴンダーシアの王族。デウス・アッタ王国の最後の国王。
フェルテ
出生1968年
デウス・アッタ王国セキオウ市
デウス・アッタ家
ブルーム・デウス=アッタ
デウス・アッタ王国国王
先代ローディフ
王号レヒテート(LehhTet)
在位1984年〜1993年6月
王位セキオウ王
宰相ゼルーク
デウス・アッタ王国の最後の国王にして、ヴンダーシア最後の君主であった。保守党の工作により幼くして即位し、保守党に懐柔されて彼らの傀儡として動いた。保守党の独裁と圧政を招き、それが民衆によって止められないことの原因にもなったため、共和革命によって退位させられた。彼は退位と同時に、ライネスの要求に基づいて王政の廃止を宣言し、保守党内閣を解散してライネスを次の宰相に任じた。

略歴

誕生

1968年、デウス・アッタ王族ブルームの長男としてセキオウ市内の離宮で生まれた。トパズィアの兄ルービスの孫、スイショウの従甥(いとこ甥)として生まれたため家柄はかなり良かったが、当時の女王ローディフとは遠い親戚に過ぎなかった。

即位を巡る議論

彼の即位前、当時の女王ローディフの次の国王を決めるに当たって議論があり、左派は「政治に介入できない若い王族を即位させて民主化を進めるべき」としてフェルテを推し、右派は「政治に対する責任感のある王が必要」として別の王を推した。最終的に保守党が左右を取り持つ形でフェルテを王太子に決定した。
保守党のその行動は、幼いフェルテを懐柔して操るという戦略があってのことであった。実際に、保守党のゼルークは即位直前からフェルテと交流しており、フェルテは彼に少しずつ好感を抱くようになる。

即位

1984年にローディフが死去すると、16歳という若さで即位が決まった。即位直前にゼルークと面会すると、彼に対して保守党に政権を握らせることを約束する。即位すると実際にゼルークを宰相に任命する。

増税問題

ガルセシア戦争によって保守党の支持が急落しても、彼はゼルークらとの友好関係もあって保守党を擁護し続けた。また、政治についての客観的な知見がなく、ゼルークが独裁であることに気づいていなかった可能性も指摘されている。
ゼルークからの嘆願に応じて追加予算案の承認命令、続いて緊急勅令を発令し予算の追加を成功させた。その後起こったゼネストもフェルテには知らされず、さらに彼は王宮から出ることを禁止され、実質的な軟禁を受けた。

共和革命

セキオウ行進決行の日、行進が始まっても軟禁されているフェルテはそれに気づかないが、ゼルーク保守党幹部が焦りを見せているのは感じ取った。ライネス自由党幹部が面会を申し入れて王宮に入ろうとすると、一時は警戒したが大蔵卿の進言により面会を許した。
長時間にわたる説得の中、最終的にライネスとのほぼ一対一の対話になり、セキオウ行進などの現状、これまでの保守党の悪行を初めて教えられ、困惑する。結局その日は結論を出せずにライネスを帰らせるが、翌日の朝になると気持ちの整理が付き、内閣の解散と共和制の実施を决めた*1。ライネスはフェルテに許可をとって「共和制宣言」の文書をしたためたが、フェルテは自分で読み上げて発表することを決めた(ライネスが押し付けたとする見方もある)。

共和宣言

6月29日、ゼルークの妨げを押し切って王宮を出て、議会に入場して演説を行った。「共和制宣言」の内容に沿って、ゼルークを罷免して次の宰相にライネスを据える旨に続いて、ライネスが就任したら自らは退位して共和制へ移行することを宣言した。
この共和制宣言は国中に衝撃を与え、ゼルークを政界追放に追い込んだ。

退位後

フェルテの退位は自主的なものであったため、退位の後も虐げられることはなかった。王宮に入ることは許されなかったが、セキオウ市内の離宮で生活した。数年間は政府が「敬意金」と称して毎年予算のうち僅かな金額をフェルテら旧王室に送っていたが、やがてそれは打ち切られた。現在は王党派の色が残る平和党がフェルテの生活費の一部を負担している。
フェルテは"最後の王"としてたびたびインタビューや会見を要求されるが、ゼルーク政権の苦い思い出はまだ心の傷として残っているらしく、詳しく聞かれることを少し嫌がっている。また平和党は権威主義を擁護しつつ、時々フェルテの復位復権をほのめかすような発言をするが、フェルテ本人はあまりよく思っていないそうだ。
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